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兄さんが背負い過ぎなRPGことTOG-fで背景が無いブログ 全員愛すけど兄弟贔屓で弟→兄 他の傾向はココで(一読推奨)
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夜歩く

 ――脳裏に甦る、まるで猛獣の様だった兄さんが。
 ユ・リベルテの周辺で暴星魔物達によるものと思われる被害が爆発的に増えている上に被害者数すなわち死者数という深刻な事態故に手助けを願いたいと大統領から連絡が入ったので、皆に助力してもらう事にした。
 爆発的に被害が増えているものの暴星魔物の目撃報告は何故か余りにも少ない――ぼく達はその情報の答えを身をもって知る事になる。突如ぼく達の足元から間欠泉の様に高々と舞い上がった砂煙の中に奴等はいた、しかも砂の数程にと表現が全く大袈裟ではない程に。兄さんが顔を強張らせて二、三歩引いたのを見て、これは本当にマズい状況だと思った。
 心の弱い者ならば視線だけで発狂しそうな程の粘着力を持った禍々しい敵意を真っ向から浴びながら震撼した、暴星魔物達は殆どが変異化したものだったからだ。
 一個隊程度容易く食い潰される訳だと奥歯を噛み締めた矢先に内臓が飛び出しかける程の勢いで腹部を突き上げられた、大量数による砂中からの突撃を四方八方から食らった事を目で確認した途端に痛覚から熱いものが喉に込み上げ、口から血が溢れ飛んだ。奴等に表情なんかないはずだけど、ぼくの血を顔に浴びた魔物はしてやったりとばかりにニタリと凶悪な笑みを浮かべた様にぼくには見えて、頭に来た。その後の記憶はがむしゃらに剣を振るい煇銃を撃っていた事ぐらいしか残っていない、作戦などを考える余裕なんか皆無だった。
 十数匹ぐらいなら何とかなったかも知れないが、余りにも数が多過ぎた。不甲斐ない事にぼくはやがて立ち上がる事すら出来なくなり、血に濡れた服を押さえる事すらままならない状況に陥ってしまう。遂に砂の上に横たわるしか出来なくなり、視界が濁っていく。後で把握した事だが、あの時に意識があったのはぼくと、ぼくの側で倒れていたソフィと、全身から血をほどばしらせながら未だに剣を振るい続けていた兄さんだけだった。
 後でゆっくりと言わんばかりに虫の息のぼくを一瞥し、変異魔物達がまだ戦い続けている兄さんに向かっていく。恐怖をもって威圧するかの様に兄さんの前に魔物達が寄り集まって作った巨大な壁はロックガガンを彷彿とさせ、血で汚れたレンズの向こうに広がっていた赤く絶望的な状況は兄さんであろうとも打ち破れる訳がないと思わざるを得なかった。片膝を突くと同時に足元に深く突き刺した剣を支えにして肩で息をしている兄さんの後ろ姿が、ぼくの絶望感を著しく加速させていく。
 何でもいいから何かしたかった、しかしぼくには煇石から原素を引き出すための最低限の活力すら残っていなかった。光子すら呼び掛けに応えない。ソフィは痛そうに持ち上げた右手を苦々しく見つめながら、どうしてと痛々しい声で呟いていた。ソフィもぼくと同じだったんだろう。
 ぼくは自らに対する失望とあの時という絶望の中で激しく憤っていた。何故ラムダは兄さんに力を貸さないんだ、と。ラムダの力を振るう兄さんはあまり好きじゃないくせに我ながら勝手だと今なら思うものの、あの時ばかりは強く願ってしまっていた。
 兄さんが陽炎の様にゆらりと立ち上がった。砂地から抜き放たれた剣が描いた砂の軌跡をボンヤリと見ていたら、砂が紫の光を淡く放っている事に気付く。
 突如、兄さんのものとは思えない程の絶叫が耳をつんざく。手が思う様に動いていたなら、耳を塞いでいたと思う。
 張り詰めた静寂に包まれた空気を切り裂く様に満身創痍とは思えない力強さで魔物の壁に向かって、兄さんは雄叫びを上げながら突撃していく。右手に握られた剣の刃は紫の淡い光に包まれていて、刃が残す紫の光の軌跡が鮮やかさに欠ける砂漠の風景へ鮮烈に描かれていった。魔物の壁の目前で鷹の様に高く飛び立ちながら全身のバネを最大限まで伸ばした後に大地を割らんとする勢いで降り下ろされた渾身の一撃は魔物の壁を縦に真っ二つに引き裂き、剣の叩き付けで巻き上げられた砂は太陽をも覆い隠した。
 剣が激しく描いた軌跡には紫色の熱線の様なものがしばらく残っていた。周辺にドシャドシャと何かが落ちる音が響き出したかと思った途端、ぼくの目の前に魔物の半身が落ちて来る。断面は焼け焦げている様に見えた。肩から腕の痛みを堪えて魔物の死骸をどかし、視界をどうにか確保する。
 寄り集まっていた魔物達は震えた鳴き声を上げながら散り散りになった後、構えるどころか脱力姿勢の兄さんに向かって一斉に突撃して来た。構えて兄さん!と叫びたかったが、腹部に激痛が走り、どうしても大声が出ない。さながら小さな磁石を破壊する勢いで集まる無数の砂鉄の様だ、ぼくはこの先を見たくない――そう思った途端、兄さんが堰を切った様な凄まじい勢いで魔物達に向かって唸りながら飛び込んでいく。
 陛下は戦っている時の兄さんの身のこなしを、翼の中に刃を仕込んだ美しい白鷹の様だと表現していた。陛下だからこそ許される大層な美化表現ですよと呆れの言葉を返してしまったが、不覚にもそうとしか見えなくなってしまったというのがぼくの真実だ。しかし陛下はあの時の兄さんも白鷹だと形容出来るだろうか、恐らく無理だ。あの時の兄さんは次々と獲物を鋭い爪で乱暴に幾度もなく引き裂き、喉元を噛み千切っては捨てていく荒々しく暴虐な白虎にしかぼくには見えなかった。
 兄さんの体が魔物達の血と絶叫で染まっていくのを、ぼくは唖然と見ている事しか出来なかった。目を逸らせなかった、する気も起きなかった。
 甲高い声を上げて何処かに逃げていく魔物も少なくはなかったが、大半の魔物は兄さんに惨殺されたはずだ。ここは砂漠だという事を忘れそうな程の魔物達の大量の死骸の中に立てられた血まみれの十字架の様に佇む兄さんの気だるそうな後ろ姿が――ぼくは、ぼくは本当に恐ろしかった。
 頭部だけになった魔物に思い切り突き刺した鞘に剣を収めた兄さんは目元を押さえる様な仕草を見せた。二、三度軽く頭を振ってから、こっちの方に振り返ろうとする兄さんを固唾を呑んで見つめていたが、憂慮の表情で周囲を見渡した後、声を掛けながら一人一人の首筋から脈を確認し始めた兄さんは普段通りの雰囲気だった。
 しっかりしろと声を掛けながら屈み込んだ兄さんの手をソフィが急いた様子で取ったのがとても印象に残っている。ぼくも小さく兄さんを呼ぶと、二人は意識があるんだなと少し安心した様子を見せた途端、体力を著しく消耗してしまっていたのか、兄さんは気を失い倒れてしまった。
 おびただしい数の魔物達の死骸が次々に原素分解され光となって宙に消えていく。魔物の頭部に刺さったままだった兄さんの剣は何事もなかったかの様に砂の上に倒れている。まるで夢の様だと思ってしまったが夢じゃない、このままではいけないと激痛に耐えながらも体を起こそうと奮闘している最中、偶然にもかめにんのキャラバンが通り掛かったのは本当に幸運だった。
 どどどどうしたんスかこれー!ちょっと何なんスかこれー!というかめにん達の叫びは耳障り以外の何ものでもなかったものの、ぼく達はかめにん及び亀車によってユ・リベルテまで運ばれ、最先端の煇術治療を受ける事が出来た。意識を取り戻したシェリアによる全身全霊の光子治癒術はその最先端を優に超えており、医者や治癒者を震撼させていた訳ですけど。
 傷は完治したものの体力は治癒術では戻らない、ぼく達は早めに宿に入った。夕食を取った後は皆いつもよりも早くベッドに入っていったが、兄さんは夕食も取らず、日が沈む前にはベッドに入ってしまっていた。消耗したからこそ食べなければいけないのにと起こそうと思ったが、泥の様に眠る兄さんを見たら、起こす気持ちが一気に何処かへ行ってしまった。寝かせておいてあげよう、と言いながら陛下が兄さんの頬にそっと触れる。優しさを隠す気など微塵もない陛下を見て、ぼくは自分に対して歯痒い気持ちになった。

 ――もう何時だろう。街の中に流れている水の清らかな音しか聞こえない、この空気の静かさは夜中のものだろう。目を閉じていればすぐさまに眠れる程に疲れ切っているというのに、目を閉じて眠ろうという気が何故か全く起きない。気になる事がある様な気がするのに何が気になっているのかが全く分からなくて、物凄く気持ち悪い。今日の兄さんの事が気になっているのは言うまでもない、他の何かだ。一体ぼくは何を気にしているんだ。
 何らかの気配でもぼくは感じているんだろうか。敵の気配なら兄さん……は今はどうか分からないものの、マリクさんと陛下なら必ず起きているはずだけど、三人共起きている気配はない。部屋は暗いしメガネもしていないから何も見えないに等しいものの、兄さんが寝ているベッドの方に寝返りを打ってみた。ぐっすりと眠ってくれていればいいんですが。
 明日の朝にでもなったら腹減ったなとか呑気な事を言って起きて来て、皆の事を改めて気遣うんだろう、そうに決まってる。そんな兄さんにいつもの憎まれ口じゃなくて少しでも優しい言葉を掛けてあげたい、陛下並みのとまではいかなくても。
 いい加減に眠らないと明日に支障が出てしまう。そう思い目を閉じようとした時、ギシッとベッドが軋む音がした。誰かが立ち上がって部屋を出ていこうとしている気配がする。ドアの方から部屋の中に細い控えめな光が入り、そして消えていった。誰が出ていったんだろうか、兄さんの様な気がする、分からない、分からないけど。枕元に置いてあるメガネを掛けて兄さんが寝ていたベッドの方へ目を凝らしてみる――やはり兄さんがいない。いてもたってもいられなくなり、備え付けの靴を履き、念のために片剣を持って、兄さんの後を追った。
 兄さんは宿を出た後、制止する門番の腕を振り払ってまで外に出ていってしまった。夜の砂漠は冷える上、もしかするとあの時に何処かへ逃げていった変異魔物に襲われる可能性だって充分ある。いくら兄さんでも危機意識が低過ぎる!
「またか、出ていってはいけない!魔物に襲われても知らんぞ!」
 出ていこうとしたら門番に右腕を掴まれた、そうか、今のぼくは軍服姿じゃなかったな。
「ぼくです、今のは兄です」目を見据えて最低限の事だけ言うと、門番はすぐさま腕を離し、「しっ、失礼しました!お気を付け下さい!」と言いつつ姿勢を整えた。
 歩き続ける兄さんの背中を怒鳴り付けたかったが、何故か言葉が出せないまま、ぼくは気配を押し殺して兄さんの後を追い続けた。200m近くは歩いただろうか、兄さんは灯りが吊るされている一本の木の下で立ち止まると、何故か木の皮を剥ぎ始めた。ぼくの苛立ちが爆発寸前に達した。
「兄さん、何してるんです!早々に眠って変な時間に目が覚めたのかも知れませんが、だからと言って夜の砂漠に出て木の皮を剥ぎ始めるとか一体どういう了見ですか、早く宿に戻って下さい!」
 兄さんは驚いた表情でぼくの顔を見た後にすぐさま木の方へと目線を戻しながら「お前か」と小さく呟くと、木の幹に背中を向けて腰を下ろした。軽く投げ出された足を見て今更気付く、裸足じゃないか。もう怒鳴る気にもなれず、代わりに大きな溜め息を吐き出しておいた。
「ええ、お前ですよ」砂地に片剣を置いてから兄さんの前で片膝を付き、苛立ちを押し殺して続ける。「……考え事だったら宿でも出来るでしょう。今夜の砂漠はやたらと静かな気配ですが、夜盗や魔物がいつ現れてもおかしくありません。大体丸腰で外に出るなんて、体術に長けているからという驕りですか」
「驕り?まさか」
「だったら尚更何で丸腰で外に出るんです、丸腰でなければいいという話でもありませんが。とにかく戻りましょう」
「お前だけが戻ればいい、放っといてくれ。お前抜きで考えたい事が色々ある、はっきり言って邪魔だ」
 かつてのぼくにでも似ましたかと言いたくなる程に仏頂面で無愛想だ、深く俯いて目を合わせようともしない。こんな感じのぼくにも普通に接していた兄さんは心が広いと感心出来るからこそ、兄さんがこんな態度を見せた事を腹立たしく感じてしまう。
 ……少しぐらい兄さんを見習ってみようと思った。
「兄さんはまだロクに皆と話せてないですよね」片膝立ちから座りに変えながら続ける。「皆驚いてましたよ、あの数の変異魔物を兄さんが倒したという事に」
 夕食を取っている時に陛下は怪訝そうにぼくに尋ねた。アスベルが強いという事は僕も把握しているけど、それにしたってあのおびただしい数の変異魔物をアスベルは本当に一人で片付けたっていうのかい?その時のアスベルは“真の意味で本当に一人だった”かい?
 マリクさんとシェリアも食事の手を止めてぼくの返答を待つ中、ソフィはぼくではなく陛下を見つめていた。パスカルさんは鶏肉とトマトのバジル煮を貪り続けていた、ああいう状況下においてのあの人の真意は相変わらず計り兼ねる。
 分かりませんとしかぼくには言えなかった、確認する術がなかったのは事実だ。この件について推測で物を言うのはどうしてもはばかられたが、重苦しい一つの真実がぼくの中にはあった。あの時の兄さんは何もかもが恐ろしかった――これは懸念している事の答えと繋がっているんじゃないか。確信すら覚えてしまっていた中、ぼくの隣に座っていたソフィがブンブンと頭を振り毅然とした声で言った。アスベルはアスベルだったよ、と。願望だったのか、或いは確信して言ったのかは分からない。そうだね、と陛下は微笑みながら言っていたが、微笑みの中に憂いがあるのは一目で分かった。
「ねえ兄さん、一つだけ聞かせて下さい」確認はしないといけない。未だ目を合わせようとしない兄さんに声を掛け続ける。「今日怒涛の勢いで変異魔物を倒している時、兄さんはどういう感じだったんですか?」
「つまり、何が聞きたいんだ」
「絶望的だったあの状況下でぼくは願ってしまっていたんです。ラムダが兄さんに力を貸してくれたらどうにかなるかも知れないのに、と。どうにかなった今はそうでなかったらいいのになんて思っているなんて、本当に勝手な話ですが……それでどうだったんですか、あの時の兄さんは“兄さんだけだった”んですか?」
 つまりラムダに寄生されていた時の陛下の様にラムダの意思が大きく働いていたんじゃないですか、とは聞けなかった。
「そういう事か、成程な」声が徐々に低くなっていった、こんなにも低い兄さんの声は聞いた事がない、突如湧いて巻き上がったこれは、この気持ち悪さは――「あの時はお前の兄が無理矢理な事をしていたんだろう、私にもよく分からん。本人もよく分かっていないだろう、やったという自覚はあるだろうが。取り合えず私の意思はなかった、これでいいのか」
 ぼくに対して兄さんが、私?いや、そこじゃない。今兄さんは、お前の兄が、と確かに言った。
「私……か」そう呟きながら右の手の平をまじまじと見つめている兄さんの左腕を強く掴む。ようやく目を合わせた兄さんに確信を持って尋ねる。
「貴方、誰です」
「もう分かっている人間にわざわざ名乗る必要があるのか」
 ああ分かった、充分過ぎる程に分かった、正体が掴めずにいた気になる事の正体も。いつからか兄さんは兄さんではなくなっていたんだ、ぼくはその気配を知らず知らずに感じ取っていたんだ。ヘドロの様な不安が腹の底から込み上げて頭を突き抜けていき、吐き気すら覚えた。
 一旦目を逸らしたが、自分に言い聞かせて再び兄さんの目を見る。左目こそ青に赤が混じり込んで紫色に染め上げられてしまったものの、右目にはぼくと全く同じのスカイブルーの明るさを持つ虹彩とダークブルーの深さを持つ瞳孔が変わらずあった。が、瞳孔の縁で紫の光が明滅している――目に見える程の猛烈さで沸騰した血が頭に上って来た、目の前が真っ赤になりそうだ!
「兄さんを」左腕を掴む右手に行き場を求めて駆けずり回る怒りを思い切り込める。「どうしたんですか」
「お前はさっきこう言った、一つだけ聞かせてくれと。その答えは返したのだ、お前の質問に答える義理はもうないだろう」
「ええ、確かに言いましたけどぼくは兄さんに言ったんですよ、貴方は兄さんじゃないでしょう」
「……確かにそうだが、私がお前に答えを返した事は事実だ、ワガママを言うな。いい加減に私を一人にしろ」
「兄さんの中で一人考えていればいいでしょう、ですからその体をさっさと持ち主に返して下さい」
 ワザとらしく大きな溜め息をついたかと思えば、視線を下げながら押し殺した笑いを漏らし始めた。嫌悪しか感じない、何かに例える気も起こらない、嫌悪だ、嫌悪ばっかりだ。目に入るもの全てに対して腹が立って来る。
 兄さんの中にラムダがいるなんて、つくづく最悪だ。ラムダが兄さんに力を貸してくれたらいいのにと願ったりしたあの時の自分を殴り付けたい。こんな奴この世から消えてしまえばいいのに、ソフィが対消滅しなければ完全に消えないなんて最悪に厄介だ。別の言い方をすれば、対消滅を他の形で起こす事が出来ればこいつは消えるんじゃないのか。それが無理だとしても他に方法があるのなら、どんな手を使ってでも探し出したい。兄さんがこいつの事をどう思っていようと、こんな奴は消えてしまえばいいんだ、この世から跡形もなく!
 ――いいからさっさと兄さんを返せよ!
「目は口程に物を言う、か。恐らくお前は今この世界で最も目で物を言っている、そんなお前に……」ゆっくりと頭が上がる、薄暗い中で左目の紫と右目の小さな紫の輪が淡く光って――「断ると言ったらどうなるんだ」
 兄さんの喉元に片剣の刃があてがわれている。刀身から柄の方へと目を滑らせる、ぼくの左手だ、ぼくがやっている、のか。怒りの余りに一瞬記憶が飛んだのか、或いは頭でどうこう判断する前に体が動いたのか。……別にどっちでもいい。
「つまりこれは……」刃を舐める様に見た後、ぼくの目を見て不敵な笑みを浮かべてみせた、兄さんならこんな笑み絶対に浮かべない。「私とやり合うという事か」
 全身から冷や汗が滲んだ気配がした。目の前にいるのは兄さんだけど兄さんじゃない、ラムダなんだ。陛下から分離した後に見せたラムダの異形の姿が脳裏に浮かぶ。恐ろしく威圧的で脅威的で暴力的で、憎悪という鋭利で残虐な力をもってぼく達をズタズタにした存在だ。皆が傷だらけになって何度も何度も死にかけながらも力を合わせてようやく抑え込む事が出来たんだ。
 今は異形の姿ではなく兄さんの姿とはいえ、兄さんの戦闘能力を得ているという事なんだろう。丸腰とはいえ勝てる気が全くしない、遠慮なしの兄さんの体術にラムダの悪意と力が加わってしまっては。それに今ぼくはたった一人だ、それでも、いやそれだからこそ隙を見せる訳にはいかない!
 自分を奮い立たせながら柄を握る左手に更に力を込める。目の前にいるのは兄さんではないものの、兄さんの首筋に刃を当てているのは事実だ。お前に刃を向ける訳にはいかない――そう言う兄さんに辛辣な言葉を矢継ぎにぶつけながらも別にそれでも構わないと思い、模造刀で相対したラントの時とは違う。今のぼくは傷付けたくもないのに、刃という一種の明確な殺意を兄さんの体に向けている。
 心臓が刃でズルズルと引き裂かれているみたいだ、この痛みとも兄さんは何度も戦っていたのか。
「本当に今のお前は言葉がいらないんだな、恐らく私が必要としていないというのもあるんだろうが」
 落ち着き払った話し方の隅に兄さん本人が見えた様な気がして、心が激しく動揺したのが分かった。違う、目の前にいるのは、と兄さんの中のラムダから目を逸らさずに自分を言い聞かせていると、片剣を握る左手にやんわりと右手を重ねて来た。
「刃が震えている」
 刃を見遣ると確かに震えている、左手にもう一度力を込めてから再び目を合わせると、淡い笑みを浮かべた兄さんが――だから違う、こいつは兄さんじゃない!
「何なんですかその顔は、その表情はお前が浮かべるべきものじゃない!」
「そうなのか、私は一体どんな顔をしていたんだ」
 挑発的な表情で聞かれた方がどれだけマシだったか。腹が立つ事に目の前にあるのは疑問に思っている時の兄さんの表情だ。ラムダ、そんな顔を浮かべるお前をぼくはどういう顔で見ろっていうんだ、もしやぼくの心を削ろうとでもしてるのか。……兄さん何してるんです、早く戻って来て下さいよ。ぼくは、ぼくは兄さんが浮かべる兄さんの笑顔が見たいのに。
「一つ教えてやろう、お前は刃を下げても問題ない」
 不敵な笑みが戻って来た、妙な安心感を睨み付けながら尋ねる。
「どういう意味ですか、この程度の牽制は全く意味がないという事ですか」
「牽制するまでもないという意味だ。今の私はその辺りを歩く普通の人間と何も変わらない。本来の力など全く発せられない。剣を持ったとしても棒の様に振る事しか出来んだろうし、煇石から原素を引き出す事もろくに出来ん。エネルギー変換された原素から身を守る術も今の私にはない」
「ど、どういう事ですか。貴方の力は甚大なものでしょう」
「とにもかくにも今言ったのが今の私の状態だ、偽りはない。今の私はさながら――まあいい」
 これ以上説明するつもりはないと言わんばかりの無愛想っぷりだ。ぼくの左手から右手を離し、肌の感覚を確かめる様に左手で右手をさすりながら「……それでもお前は刃を下ろさないのか」と落とす様に呟いた。
「下ろしませんよ、貴方が本当の事を言っている保証なんか何処にもないでしょう」
「ならその刃でこの喉を掻っ切ってみようとすればいい。私が力を隠しているならお前の刃は喉に届く寸前で弾かれる、私の言う事が真実ならお前の懸念が消えるだろう。お前には私が言った懸念の中身が痛い程に分かっているな」
 さあやってみろとばかりに刃に首筋を押し当てて来た、肌に刃が柔らかくうずまる、全身の血が一気に凍結し吹雪に晒されているかの様な悪寒がほどばしった。ぼくの命令が届く前に左手は下がったが、手首を掴まれてしまい首筋へ刃を強引にあてがわされた。粘着質な笑みがぼくの中で吹き荒れている吹雪を更に悪化させる。
「どうした」兄さんの右目の青が見たくてたまらないのに流れた前髪で隠れてしまっていて見えない、紫の左目しか――「今の私はこいつが死んだらどうなるか分からん、共に果てるかも知れん。つまりだ、お前の兄が私に侵食される可能性がなくなるどころか、お前は私を消す事すら出来るのかも知れないという事だぞ、しかも容易くな」
 兄さんの皮被って凶悪な笑顔浮かべた奴を右手が突き飛ばすのが見えた。左手が視界から消えた後に下の方で聞き慣れた機構音がした。右手が目の前の奴の胸倉を掴んで思いっ切り引き寄せている。感情を出す事もなくされるがままの兄さんの顔した奴の顎の下に、煇銃の銃口が突き付けられている。
「……引き金を引いたっていいんだ、ヒューバート。お前がそうしたいなら、そうすればいい」
 声の低さが普段の兄さんのものに戻っている、調子も抑揚も戻っている。穏やかな表情で、ぼくの名前だって呼んでくれた。兄さん、兄さんなのか。ようやく戻って来てくれたのか、遅いんですよ。……いやちょっと待つんだ。違う、兄さんはそんな事言わない、兄さんは、兄さんなら――
「兄さんなら諦めてはダメだと、信じるんだと言うに決まってるでしょう!」
 前髪が流れ、見える様になった青の右目の瞳孔の縁には未だ紫が存在していた。押し殺す様に放たれた笑い声は低い。
「言うに決まってるのではなく、言って欲しいのだろう。確かにお前の兄は今さっき私が言った言葉を口にはしないだろう、口にはしないだけだ。毅然たる態度の裏には確実な脆さが必ずあるというのにお前は兄の弱さを認めないのか、常に強く毅然としていろと残酷な要求を突き付け続けるのか」
「兄さんの体面上そういう要求をした事もありました、それを貴方が残酷というのなら、」
 右腕がゆっくり動いたかと思ったら、突如胸倉を掴まれ引き寄せられる。眼前にある二つの眼はラムダのものでもましてや兄さんのものでもないみたいだ、有機的でもあり無機的でもある、無感情なのに情動的でもある、熱砂の様なのに氷山の様だ、今ぼくは得体の知れない存在に深く見つめられている!どれが何なのか把握出来ない程の数の感情が乱雑に渦巻いて絡まり合って混じり合い熱を帯びて爆発しそうになる、胸を掻きむしりたい衝動が体を震わせる。
「そういう事じゃない、とお前が分かっているのかどうかが何故か分からないな。掻き乱されるかの様だ」胸倉から右手を離したかと思いきや、煇銃を握る左手にそっと添えて来た。「今のお前が銃を突き付けているのは私にだけなのか、それともお前になら殺されてもいいと思い兼ねない兄の心に対してもなのか」
 何も浮かんでこない、という言葉しか頭に浮かんでこない。
 添えられた右手によって左手を下げられて、顎の下から煇銃を離された。力を込めて抵抗すれば煇銃を突き付けられ続けたはずだが、抵抗する気になれなかった。力の抜けた右手が胸倉を離すのを、他人事の様に見ている自分がいる。
 今この世界にはぼく達二人しかいないのかと思う程に深い静寂がぼく達を包んでいる、空の海の先に広がっている漆黒の海の中にいるみたいだ。どうすればいいのか全然分からなくて、ぼくの左手に添えられ続けている右手をただ黙って見ていた。これが本当に兄さんならいいのにと思いながらも心の隅で安心している自分が訝しくて仕方がない。
 右手がぼくの左手から離れ、たどたどしい手付きで煇銃をなぞり始めた。片側の刃を引き上げたので「……何するんです」と口から出た矢先、刃が思い切り握り締められた。震える程に力が込められている!隙間という隙間から溢れ出した鮮血はすぐさまにぼくの左手まで流れて来た、心地の悪過ぎるぬるい温度がぼくの血の気を一気に奪っていく。
「止めて下さい、一体どういうつもりなんですか!」
「何もかも震えている、何もかもだ」
 それはお前の手じゃないのに、兄さんの手なのに!兄さんの右腕が血の川で真っ赤に染まっていく、終着点の肘から垂れる血が砂地に落ちる音の間隔がどんどん狭くなっていく。ぼくの方にも血の川は流れ込み、目に余る程の赤がぼくの左腕も染めていく。肉にめり込んでいる刃の深さを見て戦慄した、骨まで達しているのは目にも明らかなのに未だに力を込める事を止めないなんてどういうつもりだ、兄さんの右手を使いものにさせなくするつもりなのか!
「聞こえてるでしょう!止めろって言ってるんです、止めてくれ!」
「これが……これは私だけの痛みなのか、今の私だけの……治りもしない、生身の痛みなのか」
 一体何を言ってるんだこいつは。血のぬめりと脱力のせいで、左手からズルリと柄が抜けてしまった。刃は未だに握り締められ続けている、鮮血は刃から溢れ出ている様にも見えて来た。耐えられないと言わんばかりの苦悶の表情で顔を歪めているのに恍惚をした目をしているなんて常軌を逸している――兄さん、兄さんに会いたい。徐々に凍り付いて動かなくなりそうだった口と体、そして心に鞭を打った。
「止めろって言ってるだろ!その体はお前のものじゃない、兄さんのものなんだ!」
 刃を握り込んでいる血まみれの右手を無理矢理開こうと両手を伸ばした途端、片剣はあっけなく下へ落とされた。思わず顔を見ると、兄さんが戻って来たとまたしても錯覚しそうな程に優しく穏やかな表情があったが、右目の瞳孔の縁には未だに紫が居座っている。
 ぼくの左頬に真っ赤になった右手をビチャリと当てて来た、メガネのレンズに血が跳ねる。肌越しに生々しく伝わって来る、傷によって出来た凹凸が。
「ああ……もう良さそうだ」静かに呟いた後、右目の瞳孔の縁を覆っていた紫の淡い光が消え、澄み切った青だけになった。
「兄さん!」
 兄さんは何がなんだか分からないという表情でぼくの頬に右手で触れたまましばらく固まっていたが、やがて自分の右の手の平を見て愕然とした表情を見せた。表情は一瞬で苦悶に満たされ、兄さんは左手で右手首を掴むと、痛々しい唸り声を上げ始めた。
 血まみれの片剣の柄を左で強く握り、右手を兄さんの右手の上にかざす。煇石からありったけ引き出した風の原素に、兄さんと同じく治癒力は著しく低いものの加えないよりはマシな自らの光子も混ぜ込んで、出来る限り一点に凝縮して兄さんの右手に込めていく。出血はゆっくりと少しずつ減って来たが、シェリアだったらと思うと、やはり歯痒い。
「い、一体……どういう……ラム、ダ……」
 絞り出す様に兄さんが呟く。声を掛けるべきかどうか迷ったが、ラムダの名を呼んだのならラムダと会話しているんだろう。ぼくが今すべき事は他にある。ぼくの力ではこの深さの傷を完治させる事は難しいだろうけど、この深さだからこそ早い内に出来るところまで癒しておかなければ、シェリアの治癒術で完全に傷を塞いだとしても痕が残ってしまうかも知れない。
「はは、だからこれか。参ったな……」
 参ったなで済む事じゃない!怒鳴りたい気持ちを抑えながら原素を送り続けていると「有難う、ヒューバート」と兄さんが小さく言った。溺れてしまいそうな安堵感がぼくを包む。集中を切らしそうになる自分へのせめてもの抵抗として、ぼくは目をつぶって原素を送り続けた。
 傷口は案の定完全には塞げなかったが、おびただしかった出血もじわりと滲んで来る程度までには抑えられた。兄さんの血がところどころに滲んでいるナイトウェアの裾を大きく破って、包帯代わりとして兄さんの右手にキツめに巻き付ける。「相変わらず上手だな」なんて呑気な事を言いながら右手をまじまじと見ている兄さんに呆れつつも、ようやく自分の中の安堵を解放させたら、それはもう長く大きな溜め息が出た。
「迷惑掛けたな。口喧嘩でもしたんじゃないかって心配になったから聞いてみたら……別にしてないってラムダは言ってたんだが、本当か?」
 ラムダがどういうつもりでそう答えたのかは分からないが、ぼくは兄さんに余計な心配をさせたくない、ここはラムダに合わせるべきだ。ラムダと意見を合わせるというのは若干癪に障るものの。
「はい、兄さんじゃないという事が分かった辺りで少し穏やかならぬ雰囲気になったぐらいで大した事は何も」
 お前達が言葉を交わしたら何らかの口論になりそうなのにとでも思っているんだろう、兄さんは訝しげな顔をしている。兄さんの疑念はごもっともだ、ぼく自身も何もなかったというのは無理があり過ぎて顔に出てしまいそうなんだから。話を逸らさなければ――
「とは言っても、ぼくが用心のためにと持って来た片剣でいきなり右手を傷付け出した事は大した事じゃないとは決して言えませんけどね」
「ああ、これか」右手に目線を移しながら言う。「俺の意識を叩き起こすためにこんな事したみたいだ。あんまり説明してくれなかったからよく分からないが、とにかく無理矢理起こすのは大変らしい」
「そんなに大変なら、兄さんの体使ってうろうろするなって話ですよ」
 兄さんはぼくに言葉を返そうとしたが、言葉を途中で飲んでしまった。「えーと……」などと言いながら、自分の頭を左手で何度も撫で付けている。
「何なんですかその煮え切らない態度は、言いたい事があるならはっきり言って下さい」
「……お前が後を付いて来てなかったら、何事もなく宿に戻って、朝になったら俺が何事もなく目覚めていたというのにって、ラムダは言ってたぞ」
「ぼくのせいだって言うんですか!」
「誰のせいでもない、落ち付けって」兄さんは宥める様に左手でぼくの右腕を二度軽く叩いた後、真っ直ぐとした眼差しで尋ねて来た。「やっぱりお前達、何かあったんじゃないのか?」
「ぼくは至って落ち着いてますし、さっきも言った様に兄さんの右手の事以外は何かあったという程の事は何もありませんでしたよ」呆れた様子で頭を左右に軽く振ってみせる兄さんに対して毅然とした態度を崩さないまま続ける。「根本的な懸念事項ならありますね、ラムダが兄さんの体を使って行動していたという事です。今までもこういう事があったという可能性はありますか」
「……多分ないと思う」兄さんは顎に左手を添えつつ続けた。「ラムダはもう眠ってしまったけど……眠る間際に、まさかこんなに疲れるとはな、たまったものではない、って呟いてたんだ。言葉から察するに初めての事だったんじゃないか」
 陛下に寄生していた時もラムダは中でひどく疲弊していたとでもいうんだろうか、そんな気配は全くなかった。そう言えば兄さんの姿のラムダは、今の私は牽制するまでもない弱い存在だとか言っていた。あの時ははいそうですかと納得する気にはとてもなれなかったが、事実だったはずだ。強大な力というものは隠そうとしても必ず端が見える。上手く隠されたものだったとしても、それなりの場数を踏んで来たぼくには分かる。だけど兄さんの姿のラムダには確かに何もなかった。何もなさ過ぎて、疑ってしまう程に。
 変異魔物を斬り捨てていた時の鬼神の様だった兄さんも含め、分からない事が多過ぎる。取り合えず今のところは無闇に心配しなくてもいいのかも知れない。但し油断は出来ない、ラムダが虎視眈々と兄さんの全てを狙っている可能性はラムダが兄さんの中にいる以上は消えない、あの性格となると尚更だ。
「なあ、ヒューバート」ぼくの目の奥を見通しているのかと思う程の澄んだ眼差しだ。「もしかしたら今日みたいな事はまたあるかも知れない。その時にも俺が気付けないのか或いは気付けるのかどうかは分からないが、ラムダが悪意を持って俺を飲もうとする事があったら必ず気付くよ。口では上手く言えないけど……共有してるのか何なのか、強いものとなるとお互いに隠せないからな」
 胸元に左手を当てる兄さんに向けて、率直な疑問を投げる。「気付いたとしても、そうなったら兄さんは抗えるんですか」
 兄さんはぼくの質問に答えず、胸元に左手を当てたまま、黙り込んだ。顔が少しずつ俯いていき、目元が髪で隠れて見えなくなる。難しい質問だけど、この問題からは逃げられないはずだ、兄さんも、そしてぼくも。
 すぐには答えられませんよね、と声を掛けようとすると、兄さんは顔を上げた。「ハハッ」と笑ってみせたので、思わず首を傾げてしまった。「もうこんな血だらけなんだ、どうせ捨てる事になるからいいよな」と言い、左手で右の袖を破り取る。何してるんだろうと思いながら見ていると、兄さんは左手を捻じって、破り取った袖でぼくの左頬を拭い始めた。思い出した、ラムダが血だらけにした兄さんの右手をぼくの頬に当てて来た事を、そして目を。あの時の兄さんの目はラムダの目なのに、今の兄さんの目と本当によく似ている。……これという違いが見つけられない自分に腹立たしさすら覚えてしまう。
「まだ乾いてない部分が多いなんて、確かに凄い量だったもんな」血だらけのままの右腕をまじまじと見始めたかと思いきや、兄さんの表情はどんどん曇り始め、やがて項垂れてしまった。「……ダメだ、自分が上手く誤魔化せない。夜中って難しいな……静かに考え事したい時には最適だとは思うけど、後ろ向きな気持ちが混ざりやすいからさ」
「兄さん……」
「俺は自分に自信がないからな」
 まるで兄さん本人が言っているかの様にラムダが言った言葉が突如脳裏に甦った。“引き金を引いたっていいんだ、ヒューバート。お前がそうしたいなら、そうすればいい――”
 もうダメだ、もう諦めようという空気になっても、兄さんはその空気を決して飲み込もうとはしない。ソフィが対消滅をしようとした時もそうだ、兄さんだけは決して諦めなかった。ラムダに手を伸ばすソフィに向かって走っていった兄さんは、ぼく達によって作られていた“もうそれしか道はないんだろう”という空気を無理矢理に引き裂いていた様に見えた。
 あれはいつだっただろう。向こう見ずな前向きさが羨ましいですよ、というぼくの可愛げのない言葉に対して、兄さんはぼくにこう返した。俺は前向きどころかひどく後ろ向きだ、つまりお前とは違う意味で意地っ張りなだけなんだよ、と。ぼくは案の定誰が意地っ張りですかとか言い張って、兄さんの話をきちんと聞いてあげられなかった。笑っていた兄さんは後悔していたかも知れないのに、弱音を吐いてしまった、と。
「すまない。何でもないんだ、忘れてくれ。俺も忘れるからさ」作り笑顔だって事ぐらい、ぼくには分かる。「よし、もういい加減に宿に戻ろうか。誰も起きてないといいけど……何にしてもこの血まみれっぷりは、皆にきちんと話すべきだな」
 立ち上がろうとする兄さんの右腕を左手で掴む。未だに血が渇いていないせいで、手が少し滑った。
「汚れるじゃないか、触らなくていいって」
 ……兄さんの目が見れない。その代わりに、言いたい事を言ってみせる、絶対に。
「弱音吐いたっていいってぼくには言うくせに兄さんだってなかなか弱音吐こうとしないじゃないですか。吐いたかと思えば誰かを気遣った上での事で自分本位の弱音じゃなかったり、弱音を吐いた自分を強く責めたりする」
「全然吐かないからこそお前はいいんだよ、俺は――」
 右腕から手を離し、兄さんの顔を両手で挟み込む。兄さんが驚きの目でぼくを見ている、今なら兄さんの目を真っ直ぐに見据えられる。
 ぼくが弱音を吐いていない?ぼくが兄さんという存在にどれだけ固執しているか知ってるくせに、兄さんがぼくの弱音を知らず知らずの内に消してくれているだけだ、ぼくは弱音を吐いていないんじゃない、吐く必要すらも兄さんが消してくれているだけだ、兄さんがそれを知らないだけだ!兄さんが消してくれない弱音は、兄さんという存在から生まれた弱音だけじゃないか!
 ――口で言えたら、よかったんだろうか。よく分からない、ぼくには。
 顔から手を離す。左手が兄さんの血で濡れていたから、兄さんの右頬に血が付いてしまっている。兄さんはぼくと目を合わせようとしない、いつもと逆だ。
「……怖いんだ、ラムダが俺を所詮はこんな人間かと思うんじゃないかって」震える溜め息を吐いて、堪えるかの様に右腕を左手で強く握った。ぼくと目を合わせないまま、押し出す様な声で話し続ける。「星の核で俺はラムダに大きな事を言った。あれは正真正銘の気持ちだ、何の偽りもない、だからこそ怖いんだ。俺自身は本当にそれ程の器なんだろうか、伝えたい事をラムダに伝えられるのか、ラムダの中の悲しみや怒りを消すなんて俺には無理なんじゃないか、って思う事があるんだ。ラムダには俺の弱さが見えているはずだ。もし俺の弱さに失望したら、ラムダは俺を乗っ取りに掛かって全て潰そうとしてしまうかも知れない。きっと俺は……抗えないよ」
 心境としては物凄く落ち付けている気がするものの、ぼくは相当に動揺しているんだろう。言葉を掛けてあげたくて仕方がないのに、どんな言葉を掛けてあげればいいのかが全然分からない。仮にぼくの立場が兄さんのものだったとして、ぼくが今の兄さんと同じ内容の弱音を曝け出したら、兄さんは動揺する事もなく安心させてくれる言葉を掛けてくれるだろう。なのにぼくはこのザマだ。
 悔しくて、情けなくて、泣きそうだ。
 小さい頃に兄さんはぼくを慰める時、背中を叩いて軽口を言っていた。今は軽口ではなく優しい言葉になったし叩く強さも弱くなったけど、背中を軽く叩くという事は今も変わらない。時には恥ずかしげもなく軽く引き寄せてから、背中を叩いてくれる。子供扱いしないで下さいとか別に必要ないですとか言いがちだけど、実は物凄く安心出来る。
 兄さんも安心出来るかどうかは分からないものの、何も出来ないままでいるのは嫌だった。伏せ気味になっている兄さんの目を一瞥し、右手を背中に回して引き寄せ、背中を軽く二度叩いてみた。
「ヒューバート……」
 兄さんの体温を強く感じて、自分の中に冷静が戻って来たのが分かった。ああ、そうか。ぼくは兄さんの弱さを前にして何を言えばいいのか分からなかったんじゃない、理解したかったんだ。すぐさま咀嚼した気になって、安易な優しい言葉を吐きたくなかったんだ。兄さんの様に相手の立場になって、全力で理解しようとした上で、投げ掛ける言葉を考えたかったんだ。だけど――
「すいません。ぼくは優しい言葉を作るのが苦手になってしまったから、今の兄さんに上手く言葉を掛けてあげられない。ただ一つ言うなら、兄さんは兄さんが思う程に弱くないです。弱さを見る事から逃げる術を、目を逸らす事を知らないだけなんじゃないかって……ぼくは思います」
 兄さんはしばらく何も言わずにぼくに体を預けていたけど、やがて小さな声で「有難うな、充分な言葉だよ」と言いながらぼくから離れた。未だに俯いたままでいる、これ程にも目を合わせようとしない兄さんなんて見た事あっただろうか、恐らくない。
「ああもう、再会したばっかの頃みたいにお前が冷たいままだったら、弱音なんか吐くなって言われて、相手にもされなかったんだろうけどなあ」
 兄さんの口元に浮かんでいる作られた笑みを見ながら、そんな風だったぼくを変えていったのは誰ですか、という言葉を飲み込む。口元から突然に笑みが消えた、頬を伝って顎先から血が落ちている。だけどぼくが付けた血は滴る程のものじゃない。……兄さんが泣いている。
「俺もお前も……血だらけだ」
 兄さんの方が遥かに血だらけだし、そもそもこの血は全部兄さんのじゃないか。怪我は右手にしかしていないのに、今の兄さんは全身に傷を負っている様に見える。
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